「まったく、あなたのそのくせさえなくなれば、あなたは完璧なのに。少しはあなたの心無い言葉でどれだけ人が傷つくのか自覚したらどうなの?」
「じゃあ、僕が人を悪し様に言う悪癖を治したら君はあそこにいる女の子達のように僕に黄色い声をあげてくれるわけ?」
マグデブルグの半球
「えっ」
まさかそんなことを言われるとは思ってもみなかった。
成績優秀で眉目秀麗、運動神経抜群、監督生とまさに絵に描いたような完璧な人。
誰もが一目置く見事な魔法にそれを生み出す優秀な頭脳。そして、細身だが鍛えられた体躯は合わせて彼がまぎれもないエリートであることを示していた。
それがトム・リドルである。彼の短所といえば、ミネルバ自身が指摘した針のように鋭い舌鋒。それと、もはやこのホグワーツ誰一人大声では言うことができないが、彼が混血だというこの二点のみだ。
彼が純血だろうが混血だろうが頓着しないミネルバにとって、その人の精神をメスで切り裂くような容赦のない毒舌のみがトムの短所であった。
「どうなの?ミネルバ」
トムは返事をしない彼女に近づいてくる
一歩、また一歩とゆっくり彼は歩を進めた。その様をミネルバは黙って見つめていた。
とうとう彼我の距離は半歩にまで縮まり、ミネルバは彼を見上げた。
いつのまに、こんなに背が高くなったのだろうか。
相手の顔の造作の美しさよりも彼女はそんなことに気をとられていた。初めて会ったとき、このふたりの目線は同じ高さにあったのだ。
「答えてくれないか、ミネルバ」
―冗談はよして。それもあなたの悪い癖ね。
「僕が、君にとっての完璧になれたら君はその唇を僕に許してくれるのかな?」
いつもの冗談とその場をやり過ごそうと決め込んでいたミネルバにとって、それは決定的な一言だった。
ミネルバは答えない。いや、答えられなかった。昔のように同じ高さにまで下がっていたトムの瞳が彼女の思考を、このホグワーツで主席を争うほど明敏な彼女の思考を!、いつもの何倍も鈍くさせていた。
唇を許す―キスくらいはしたことがある。いつだったか、二人でアレンジした変身呪文が大成功した時、クィディッチでグリフィンドールが優勝した時、自分達が寮の代表選手に選ばれた時、それこそ両の手では足りないくらいに。
それは友達の、同志に対するものであって決して恋人に対してではない。
しかし、今トムの言うキスとは今までとは別種の、ようするにlikeではなくloveの方が。
器量がよくて、頭もいい、優秀な魔法使いの卵。クィディッチだってとても上手いし監督生を務めるくらい人望も厚い。
これ以上ないくらいの人だ。
彼女の心の一部はとっととYESと言ってしまいなさい!と急かす。それもいいかもしれない。
しかし、ある部分はやめておきなさいと言う。
この両者が彼女の頭の中で鬩ぎあって、彼女の思考は身動きが出来ないので当然トムに答えることができない。
トムの言葉を肯定する方が優勢だったが、 そのときのミネルバには彼にYESと答えてしまうことは唇を許すことよりももっと何だか取り返しのつかないことに思えたのだった。
ミネルバの心の葛藤のための沈黙をトムは自分に都合のよい方に解釈して、彼女の頤を捕らえた。先ほどしていたようにまた視線を合わせると、少し彼女の瞳が揺れたような気がした。
ミネルバの頭の中でYESの方が優勢になる。
何をキスごときでそんなに迷う必要があるのだろうか。こんなにすてきな人は滅多にいないのだ!
傾きそうになる彼女の耳に鐘の音が聞こえた。
――チャイムだ
「っごめんなさい。授業に遅れるから、この話は後にしましょう」
現実に返ったミネルバは今にも口付けそうな距離にいたトムの胸を突き飛ばし、一目散に駆け出した。
必死で走りながら、ミネルバは考える。
彼だとか、恋人とは違う。自分たちはそんな関係ではないはずだ。
自分と彼は親友だ。敵対寮の監督生として時には競い合い、共通の困難があればともに立ち向かう。対等な親友なのだ。そこには浮ついた(と彼女は考える)恋心などは存在しない。在るのは友情だ。
だって、恋はすぐに冷めてしまうもの。
でも友情なら不変だ。
マグデブルグの半球のように、一度空気を抜かれれば人の力では離れるのが困難なように。
そうすれば、私と彼は離れることがない。
―ミネルバはわざと気づかないふりをした。
強固に結びついたふたつの半球も、間にに空気という異物が入ればいとも簡単に離れてしまうことを―
ふたつの半球が離れるのにそう時間はいらなかった。
*)
1年半ぶりのリド→ミネです。「とむ」で変換すると一発変換が「富む」になってしまうくらい久しぶりでした。
タイトルは真空の実験で使われる器具です。半球同士を合わせて中の空気を抜くと真空状態になってなかなか外れなくなるというものです。外れないのは外気の大気圧のせいです。