周の要塞を発ち、朝歌へと進軍する周軍。
五桁に及ぶ兵士、膨大な軍馬・食糧・武具・資材を統括する軍師の天幕はいつも夜遅くまで明かりが消えることはなかった。
その天幕に小さな人影が入っていった。
星屑集め
「こんばんは、太公望。父様のこと知らない?」
それは武成王・黄飛虎の末息子である黄天祥だったが、呼ばれた太公望は声と天祥を一致するのに少し時間がかかった。
「天化兄様もどこにもいないんだ」
天祥の掠れた声に太公望は驚き、額に手をやってさらに驚いた。
「風邪だのう。お主ら天然道士は免疫も強いはずなんだが。昨夜は腹でも出して眠っていたのか?」
「師叔、それは腹痛です。季節の変わり目ですからね、天然道士でも子どもなら風邪もひくでしょう」
夜食の桃と茶を盆に載せた楊ゼンがフォローを入れた。太公望に渡す筈だった湯呑を天祥に持たせ、肩布を被せてやる。
「師叔はここにいて武成王か天化君を待ってて下さい。僕は天祥君をテントに送ってどちらかの帰りを待ってますから」
上司たる太公望に楊ゼンは熱を出した天祥の一時的な看護役を申し出た。軍の要である太公望に万が一、天祥の熱が移っては進軍に差し支えると配慮したためと、単純に天祥の症状を気の毒に思ったからであった。
毛布をかぶせた天祥の手を引き、楊ゼンは天幕の外を出た。
新月のせいか、いつもより暗い。
「ごめんなさい」
「どうして謝るんだい?」
「本当は昨日からちょっと頭がくらくらしてのどが痛かったんだ。でも、心配させたくなかったんだ。みんな忙しそうだったし、ちょっとくらい具合が悪くてもって」
「えらいね。でも、今度から武成王や周りの人に言うんだよ」
楊ゼンは天祥の姿に、崑崙に来たばかりの頃の自分を見た気がした。彼も周囲の(と言っても彼の場合はかなり限定されるのだが)大人に甘えるのが苦手だった。限界まで我慢するものだから、ちょっとした病気もこじらせてしまい、師匠の玉鼎真人を青くさせてものだ。
師匠はどうしているだろうか―。
崑崙に思いをはせるとき、どうしても空を見上げてしまう。
空は月の代わりにわがもの顔の星たちが占拠していた。冬に向かいつつある空気は昨日よりも澄んでおり、星々が今にもこちらに降ってきそうな感覚にさせられる。
「かあさま、見てるかな?僕の母さまはあそこにいるんだって」
天祥も空を見つめていた。
彼の父が息子にそう言ったのだと、楊ゼンはどこかで耳にしていた。
「きっと見守ってくれてるよ」
「楊ゼンさんの母さまは?」
「だいぶ昔にいなくなったよ」
「やっぱりさびしかった?」
「最初はね、でも父がいたし崑崙に来てからは師匠がいた。だからさびしさは自然と薄れていったよ。彼女のことを忘れてしまったり、彼女が去って悲しいと思う気持ちがどんどんなくなっていく自分をひどく薄情だと思ったこともあった」
「ぼくも、いつかそうなるのかな」
「どうだろう、君はやさしい子だから」
そこで言葉を一旦切った。目的地である天幕にようやく着いた。
天幕の冷え切った空気が天化や黄飛虎の不在の長さを語っていた。
「さぁ、もう寝ようか。風邪をひいたら眠って安静にしているのが一番だからね」
「楊ゼンさん、行っちゃうの?」
「天祥君が眠るまで、こうしてるよ」
「手、握ってもらっていい?かあさまが生きてた頃、風邪をひくといつもこうして手を握っていてくれたんだ。とても暖かくてやわらかくて母さまを独り占めできて、とてもうれしかった」
「そっか」
楊ゼンはすでに夢の世界に片足を踏み入れている天祥の小さな手を握った。
今度は、重ねることはなかったが、少しだけ彼を可哀そうだと思う気持ちと同時に別種の感情が楊ゼンを襲った。
嗚呼、いやだな。これはよくない―
後姿の女と歩けない自分
手足をジタバタさせるだけで何も出来ず
彼女は去っていった。一度も振り返らず―!
感情移入しすぎてはいけない。
「天祥?」
物思いに耽っていて、楊ゼンは天幕に近づく気配に気づかなかった。
駆け足で天祥の探し人だった黄飛虎が天幕に入ってきた。
「このとおり、よく眠っていますよ」
きっと、ひどい顔をしているだろう。楊ゼンは少しの気まずさに肩をすくめた。
「そうか。済まなかったな、子守りをさせちまって」
「いえいえ、どうせあのまま師叔の天幕に行ってもすることはほぼ同じですから」
いつもの調子で少々高飛車気味に言った。
「そんなに太公望殿の補佐は大変か?」
黄飛虎が苦笑いする。
「時と場合によりけりです。有事の際はともかく、師叔は事務作業があまりお好きではありませんから。まず机に向かわせることから始まります」
少し大袈裟に太公望のサボリぐせを表現した。黄飛虎がそれに乗ってくるかと思ったが、楊ゼンの予測ははずれた。飛虎の視線は楊ゼンの手に注がれていた。
「あぁ、これですか。天祥君が風邪をひいた時、お母様が手を握ってくれてたそうですね」
「天祥が、そう言ったのか?」
黄飛虎が強張った顔で楊ゼンに問う。
「えぇ。それで、寝付くまで手を握っていました。時々、見落としてしまいますが大人顔負けの力を持っていても子供なんですね」
「初めてだ」
「何がですか?」
「周に来てから母親の、賈子の話をしたのが」
それきり飛虎は黙ってしまった。
「そういえば、天祥君、心配をかけたくないと言ってました」
「あ〜。息子に遠慮される父親か。情けねえな」
「そうですね」
「・・・楊ゼン殿。そこはフォローを入れてくれるところなんだが」
「思ったことをそのまま言ったまでですよ。大体、武成王ともあろう人が息子の体調不良にも気づかないとは」
「俺と似て頑丈にできてるから油断した。そういえばもっと小さい頃は風邪も普通に引いていたな。あの頃は賈子がすぐに気付いてたから」
しばらく、飛虎は天祥を見つめていた。
楊ゼンは天祥の手を離さない。
「そういや楊ゼンどのっておふくろさんいるのか?」
「さぁ。物心ついたときにはいませんでした。生きているんだか・死んでいるんだか。あぁ、そんな気まずそうな顔しないでください。ほとんど記憶がないぶん、悲しいとか寂しいとか感じないものですよ」
言い切った後、楊ゼンは後悔した。仙界に上がって久しい仙道の親などこの世にいるはずもない。すでに死んでいるというべきであった。
「無理してる顔だな」
「嫌だな。仙人界にあがるということはそういうことです。天化くんや雷震子は特別なケースですよ。それが幸福かどうかは僕にはわかりませんがね」
「どうしてだ?」
「人への未練が残っては仙人界で暮らしづらくなりますし、実際に人間界にもどるといって下山する仙道は相当数いますね」
「あんたは考えなかったのか?」
少し、目を見開いて
「僕にはあそこしか帰るところはありませんから。物心ついた時から崑崙にいたので元いた世界に未練なんてありようがないんですよ」
今度は完璧な答えだ、と楊ゼンは自分の言葉に満足した。
「やっぱり、何年も離れてるとそうなるものか」
当たり前だ。父親が迎えに来てくれることを信じていた何も知らない子どもも、10年経てば現実を知る。頭の片隅を少し冷たくしながら肯定した。
「あなたは、ありますか?殷にまだ未練が?これはオフレコですが」
さらりとまるで夕食のメニューを聞くようなさりげなさで楊ゼンはかつての殷国の重鎮に聞いた。
「ないと言っては嘘になる。でもあそこに戻っても、すべてが元通りになるわけじゃない。物事にはこれだけははずせないっていうものがあって、それを失ってしまったらすべてバラバラだ。残ったものだけじゃ、意味はないさ」
「そうですね、星屑を集めても星は瞬かない」
それきり、テントは規則正しい天祥の寝息に支配された。
*)
notCP率が大きくなる一方です。ちなみに当初は天楊の予定でした。それが、なんだって、親父に持っていかれるんだ・・・。
他人の心の機微に無神経な楊ゼンを書くのが目的だったのでその点はクリアしてるといいな。